「死にたい」から救われて

わたし自身、生きてきてもう嫌だ、と思ったことは何度となくある。

 

昨日まで普通に話せていた友達がある日突然目も合わせてくれなくなったことが三回くらいあるし、

独り占めしたかった友達に絡んできた子をいじめてしまって死ぬほど後悔したこともある。

知人が虐待を受けていたことも、差別を受けていたこともある。

 

今頑張ったらいつかいいことがある、と思って勉強してきたのに、

まだ幸せになれない。

どこまで頑張ったらいいんだ?

生きてたってなんにもいいことないじゃないか。

わたしのまわりにはつらいことしかないじゃないか。

 

数年前、ほんとに死にたかったら死んだらいいと思うんだ、と知人に漏らしたことがある。

だって生きていくのがつらい人に「生きよう」なんて、無責任じゃないか、と。

知人も、これに同意していた。

 

でも実際、わたしは死にたいとか、今殺されても何にも悪いことないとかずっと思っていたのに、

まだ死んでいない

 

今死んだら誰かが悲しむとかは正直さっぱり気にならなかった。

たかがわたし一人が死んだって、きっと当たり前に世界は回るのだ。

本気で死にたい人間に、「あなたが死んだら周りの人が悲しむ」と言っても、たぶんあんまり効果はない。

死にたいつらさをほかの誰かが肩代わりしてくれるわけではないし、自分の人生だからそこで他人にどうこう言われても、となる。

自分のことを大切に思ってくれる家族とか知人がいなかったら死んでいいの?ともなる。

 

それでも死ななかったのは、

本当につらくなかったからだというよりは、

死ぬ勇気がなかっただけだと思う。

 

死ぬことは基本的に苦しみを伴う。

首をつったら息が苦しいし、ナイフで刺したらそれはもうめちゃめちゃ痛いだろうし、飛び降りるのも足がすくむだろうし、地面に打ち付けられるまでに意識を失わなかったらどんなに痛いんだろうと思う。

 

少し前のドラマだが、「家政婦のミタ」で、松嶋菜々子さんが演じた家政婦・三田灯が、

死のうとしても、意志とは反対に、体はもがく」というようなことを言っていた。

 

その通りだと思う。

そうして死ねなかった人は、死にたい、つらいと思いながら、

また生きなければならなくなる。

 

死にたいくらいつらいのに死ねず、かといってつらい原因が取り除かれることはなく、

ただ生きていかないといけなくなる。

ここまで考えたとき、そんな思いは誰にもしてほしくないと思った。

そんな状態のままで生きていくむなしさを知っているからこそ。

やっぱり、「死にたい」と思ってほしくない

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