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語られる被災者の本音―被災地の「過去」「今」「これから」とは

taliki編集部 2017年10月22日
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こんにちは。taliki編集長の川真田夕起です。

以前、宮城県気仙沼市のゲストハウス架け橋について触れました(https://taliki.org/archives/463)が、私はその架け橋が今年の夏休みに企画したツアー・「被災地の時を旅する4日間。」に参加しました。

「被災地の時を旅する4日間。」…気仙沼市階上のゲストハウス架け橋が実施したツアー。初日は語り部さんから東日本大震災当時のお話を聞くことで被災地の過去を、二日目は街歩きと漁師体験によって現在を、三日目はまちの工場見学・丼づくりを通して未来について考えるもの。

ツアー初日の晩ごはん(ゲストハウス架け橋スタッフ撮影)

語り部さん半沢裕子さん気仙沼市の鹿折(ししおり)地区出身。6歳、3歳、1歳の三児の母親。架け橋で日中営業している絵本カフェの従業員。長女和奏(わかな)ちゃんを連れての語り部でした。語り部として被災経験を話すのは初めてとのこと。

左から川真田・和奏ちゃん・半沢さん(同上)

このツアーの初日に地元の語り部さんから震災当時のお話を聞くことができました。ツアー全体を通して大きな学びがあり、様々なことを考えました。

なぜわざわざ気仙沼に行くのか?震災から6年が経過した今、被災地で求められていることは何なのか?今回はまず語り部さんのお話を紹介し、それから私が気仙沼で考えたことを書いてみたいと思います。

半沢さんの経験した東日本大震災

『震災が寒い時期でよかった』

半沢さんは、和奏ちゃんが0歳のとき、予防接種のために通っていた病院で被災しました。

自宅のあった鹿折地区はタンクから重油が漏れ出したことが原因で大火事になります。空が真っ赤になっているのが見え、爆風が2日ほど続きました。あちこちでプロパンガスが爆発している音が聞こえていました。幸い半沢さんの自宅に被害はありませんでした。

津波からの避難のため家族はばらばらになります。海沿いのボウリング場に勤めていた旦那さんは帰ってきました。半沢さんのお母さんが帰ってこないので、あちこちの避難所を探します。それでも見つからないので、怪我でもしたのかな?と病院を探します。それでも見つからないので、安置所を探し始めました。

近くの学校の体育館が安置所になっていました。学校のプールでは、自衛隊員が引き上げたご遺体を洗っているのが見えました。安置所には大量の棺が並び、線香の匂いが立ち込めていました。

その中で、半沢さんのお母さんは見つかりました。震災後引き上げられたご遺体の中には、損傷が激しく身元の特定ができないものもたくさんありましたが、半沢さんのお母さんの場合は顔がはっきりとわかり、身分証明書も持ったままだったため、すぐにわかりました。

3月の気仙沼はまだ寒さが厳しく雪も降ったため、ライフラインが途絶えた中で生活を送る被災者は苦しめられました。それでも半沢さんは、震災が起こったのが寒い時期で良かったと言います。「もし暑い時期だったら遺体が傷んで、あんなにきれいにあがらなかっただろうから」と。

火葬場はどこもいっぱいで受け入れてもらえず、線香一本さえもらえませんでした。半沢さんはお母さんを車に乗せて、ドライブをしながら自宅まで連れて帰りました。

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