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京大生、林業始めるってよ

加藤 翼 2017年5月21日
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人をしあわせにするのは、人

じゃあ、実際に自分がどんなときしあわせを感じたのか。そこから考え始めました。皆さんもよければ考えてみてください。しあわせが難しいなら、一番楽かったときでも良いと思います。

僕の場合、まずしあわせを感じたのは、「カンボジアで小学校を建てて迎えた開校式の日、みんなで乾杯した瞬間」です。1年半かけて、建設資金を集め、カンボジアに来て石を運び、土を掘り、ペンキを塗り、子どもたちとこれでもかというぐらい遊びまくりました。僕はいままで何か目標を持って、仲間と力を合わせ、何かを達成したことはありませんでした。だからこそ、1年半苦しみも楽しみも仲間と共にし、目指してきた「小学校建設」という目標を達成している。その喜びを共有し、同じときを過ごしている。そんな日々が何よりも濃く、楽しく、「生きてる!」って心から思えました。

また、別のときにも一つ。それは、休学して東北で1年間のインターンを終え、京都に戻ろうというとき。まだまだ未熟で生意気で、自信もない僕に「ずっと見守ってるよ」「いつでも帰っておいで」「応援してる。これからが楽しみだ」と言ってくれた人たちがいたこと。それは、まるで家族のようで、ほんとうに言葉が出てこなくて、「有り難うございます」と繰り返すしかなかったことを思い出します。

この2つの経験に共通すること。

それは、僕以外の誰かがいたことです。

一人でお金集めて学校を建てても、喜びを共有する人がいなければ、あんなに楽しくなかったと思います。東北で僕に感動をくれたのは、僕と真正面から向き合って声をかけてくれた人たちでした。僕は、僕以外の誰かがいないとしあわせになれないのだと、わかりました。

これに気づいたあと、僕の過去を振り返って考えてみると、いつでもそうだったのではと思います。僕は、中学や高校のとき、友達がうまくできませんでした。クラスメイトになんて声をかけたらいいのかわかりませんでした。いっしょに遊びたいときに「仲間に入れて」と一言伝えることができませんでした。そんな思いをしないで済むように、勉強や部活に没頭しました。まったくつまらない日々ではなかったですが、心のどこかで友達と楽しく話す人たちを横目で羨ましく思う自分もいました。そんなこと、大学に入るまで無意識のなかに閉じ込めてきましたが、カンボジアや東北での経験を通して実感しました。

僕はいつだって、人との繋がりを求めてた。

僕がほしいもの、僕をしあわせにするのは、信頼のおける僕以外の人たちなんだ、と。

 

僕が大切なのは、人。じゃあ、それを大切に生きていくには…?

僕をしあわせにするのは、人。だから、僕は、僕をしあわせにしてくれる人を大切にしながら生きていきたい。そう思うようになります。

ただ、そこでまた壁にぶつかります。

いまの世の中、「人」を一番大切に生きていくことが難しいように思えたからです。

なぜか。僕は現代社会の「効率」を最優先に考えていることが問題だと感じました。

ここからは「効率」が人を排除する話をしたいと思います。

いまの社会は、「資本主義」です。そこで求められるのは、「効率」。なぜなら、他の企業との競争に勝って、利益を上げないといけないから。「より速く、より遠くに、より合理的に」という言葉が表すように、とにかく1秒でも効率よくすることが大事です。また「合理的」というのも、資本主義社会の特徴をよく表します。

「効率的」とは、無駄のないこと。すべてが論理的に、思った通りに動く「合理性」は、「効率的」であることの前提になります。

実際、極度に「効率よく」なった現代の日本は、とても「合理的」です。ネットでボタン一つ押せば、某配達業者が時間指定で翌日に届けてくれる。5分おきの電車が、1秒単位で動いています。これほど思い通りに動く社会は、過去を振り返っても、例を見ないでしょう。この素晴らしい社会が実現したのは、今までの人類のたゆまぬ進歩の歴史があったからで、その努力は尊いものです。

しかし、この思い通りに動く「合理的」な社会に慣れてしまうと、弊害も出てくると思います。それは、思い通りにならない「不合理的」なものを許せなくなってしまうことです。配達が10分遅れれば配達員に文句を言い、電車が1分遅れれば予定が狂ったとクレームをつける。少しでも自分の思った通りにいかないと、我慢できなくなってしまうのではと思います。

 

不合理な存在としての、他者

それがそんなに問題か?と思う人もいるかもしれません。しかし、世の中は人間のつくり出した合理的な機械だけでは動いていません。

一番身近な「不合理」な存在。それは、「他者」です。

自分の思い通りになる人などいません。理屈や理論では説明できない感情を持ち、生きています。人の感情は、合理的な社会では予想外の出来事をもたらすため、極論必要のないものなのです。

実際に、様々なものを貨幣価値に換え、商品化する資本主義社会では、人との関係という不合理的で面倒なものさえも、効率的に合理的に進めようとしています。地域が担ってきた子育ては保育園や託児サービスになり、家族がしてきた介護は老人ホームや在宅介護サービスになっています。サービスになったということは、一定時間の子育てや介護に値段がつき、そのお金を「支払う・受け取る」ことで、そのサービスを「受ける・提供する」という関係になったということです。サービスが終わり、お金を払えば、その関係は終了、あとには何にも残りません。他の人との人間関係があったからできたことが、お金によって代替されるようになり、もともとの家族関係や地域との繋がりは薄れてきているのです。

さて、話を戻します。

僕は、「人」を大切にしながら生きていきたいです。

しかし、いまの世の中の仕組みは、「人」を排除する傾向にあります。

もちろん、社会のあり方はそうだとしても、自分の生き方を貫くことはできるかもしれません。けれど、僕には漠然とこのまま会社で働いていたら、僕の求める生き方はできないんじゃないかと不安になります。

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WRITER

加藤 翼

加藤 翼

京都大学総合人間学部

カンボジア小学校建設プロジェクトで3年間活動。その後1年休学し、東北のNPOでインターンとして、農業漁業の世界を消費者に伝える仕事に携わる。自分を生かしてくれる他者と周りの環境に気づき、それらを大切にしながら生きていける方法を模索中。

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